なぜ我執着と我見を捨てる必要があるのか

目次

祈願したことがなかなか叶わない人は、我執着と我見について、ふりかえる必要があります。我執着というのは、何かを叶えたいという「こだわり」です。あまりにもこの「こだわり」が強いと、その執着心がマイナスのエネルギーとなって、実現を妨げるのです。

執着心は幸せを遠ざける

執着心とは、その裏側に「もしかしたら叶わないのじゃないか」という恐れの心が隠れています。そして、「早くなんとかしたい」との焦りの心もそこにあわさっています。焦り、怖れ、これはネガティブ想念なので、幸せを引き寄せる邪魔をするのです。もし、完全な信仰心があると、「神様が私にとって一番よい形で叶えて下さる」と確信しているので、そこには怖れや焦りはありません。むしろ、安心感、幸福感がそこにあります。安心感、幸福感を伴うイメージは実現しますので、そのような祈りや願いは叶うということです。そもそも、あなたが「こうあるべきだ」「このように叶うべきだ」という決めつけは、あなたの我見にもとづく思いです。我見というのは、自分の狭い尺度で物事を判断して、これが良いと決めつけることです。もっと大所高所から観たら、また違う最善があるのです。

神は過去現在未来を見通す

神様は未来まで考慮して最善の導きをされますから、わたしたちの我見とは少し違う方向性で導かれる場合もあるのです。もし、神様の視点に立って大所高所から観ればその願望が叶う時期にも適切な時期があるし、叶い方も、本人の我見とは少し違う形で叶うほうが、本人の幸せにつながる場合もあります。あなたが考える最善のプランよりも、神様の考えるプランのほうが圧倒的に素晴らしいものなのです。それは「必ずあなたを幸せにするプラン」なのです。ですから、思いのたけを祈ったら、最後のところは、「いろいろお願いしましたが、最終的には、神様の目から見て一番良い方向にお導きください。すべて神様にお任せいたしますので。」という締めくくりで、自分の我執着と我見を捨てて、祈りを締めくくるのです。これが、正しい神霊とのつながり方であり、ほんとうの他力の引き出し方です。

執着を捨てるのは難しい

ところが、我執着、我見をなかなか捨てられない人もいます。そんな人はいくら引き寄せても、祈っても、いつまでたっても叶わないように感じているかもしれません。過去をすべて手放し、すべてこれでよかったんだと受け取り、現在には、ありがとうございますと感謝し、未来に向けては「これからどんどんよくなる」と確信する。この状態の時、祈りは神仏や守護霊に通じますし、自己による暗示や引き寄せの言葉も強く作用します。それがなかなかできない人はどうすればいいのでしょうか。一つの修業方法は、整理整頓と不要物の処分です。家の中、自分の部屋にある、いらないものを捨てるのです。物には過去の感情や思考などの記憶が関連づけられています。物を捨てるという象徴的行為を通じて過去の感情や思考を手放す儀式をしていることになります。

整理整頓をすると雑念が消える

整理整頓をすると、気持ちがすっきりするのはそのためです。不要な、道具、衣服、書籍、書類、ノート、小物、飾り、<雑貨、手紙など、あらゆるものを見直し、捨ててみましょう。そうすれば、執着心を上手に手放せるようになります。過去の嫌な出来事がどうしても忘れられない、というのも我執着の一種です。過去の記憶への執着なのです。過ぎ去った嫌なことはすべて水に流し忘れ去ることです。逆に良い思い出や人から受けた恩義などは、記憶の財産、宝物です。それを思い出すことは、良い引き寄せをもたらすからです。良い引き寄せを再生産できる思い出は温存し、悪い引き寄せを再生産する嫌な体験は、断捨離する。そうすることで、執着を手放せるようになります。過去に読んだけれども効果のなかったスピリチュアル本やスピリチュアル人の著書などはこの機会にすべて整理し、不要なものは処分してみましょう。

因果応報の法則についての理解を深める

自己愛性パーソナリティスタイルの傾向がある人は、しばしば、自分に甘く他人に厳しくなります。こうした傾向がある人が因果応報の法則を知ると、不運な人や問題のある人を観ると、「ああ、あの人は自業自得。因果応報なのよ」と冷たく突き放すような観方をしがちです。その一方で、自分へのふりかえりがないのです。そして、弱者、未熟な人に冷酷で厳しい仕打ちをして平気でいることが多くなります。ほんとうは、そういう冷酷で無慈悲な行為はすべて自分に跳ね返ってくるのです。誰かを見捨てることは、自分が見捨てられることであり、誰かを冷たく突き放すことは、自分が誰かに突き放される、という因果応報の作用を本当には理解してないのです。だから傲慢にもなるのでしょう。

愛情不足と愛着障害

自己愛性パーソナリティスタイルの傾向がある人は、しばしば、自分だけ効率よく生きようとして面倒な責任分担から逃れようと画策したり、こざかしく、ずるがしこい行為を平気で行います。これは一見、無駄を省いて自分の人生を有意義にしているように見えるかもしれません。しかし、実際にはそうやって誰かに迷惑をかけているので、必ず自分にしっぺ返しがまとめてやってくるのです。突然の不運に嘆くことにもなりかねません。そうなってから、いくら神頼みしても、神様は全部お見通しですから、簡単には救いの手を差し伸べてくれないのです。こういう母親であれば、その子はほぼ確実に、愛情不足に陥り、「愛着障害」を抱えることになるでしょう。

子育ての本当の意味

もし、あなたが親という立場にいて、あなたに子供がいたとして、その子が大きな問題を抱えていたり、あるいは、わがままな行動や無思慮な行動をしてあなたの心労を増やしているとしたら、まず考えるべきことは、どうして、その子の魂がわが子としてこの世に生まれてきて、自分が親としてその子を育てることになったのかです。それはすべて因果応報の結果なのであり、たまたまの偶然ではありません。子供だけでなく兄弟姉妹、配偶者、親、親戚すべてそうです。その中でもわが子というのは重みがあります。親はその子の魂を神様から預かり、育てるというお役をもらっているということなのです。もし、出来が悪い、問題の多い子だとしても、その魂を少しでもよりよく育てることが親の役目です。親の魂の修業であり、前世のあがないも兼ねるのです。育てにくいとしても使命感をもって育てることが今生のテーマです。

自己愛性パーソナリティスタイルの親

我が子をひどく突き放す親もいます。無慈悲に突き放せば、また、あなたは誰かに突き放される運命を引き寄せるのです。因果応報を他者に観察するのは上手でもわが身にそれを当てはめて考えられない、これが自己愛性パーソナリティスタイルの人の特徴です。これが世間でいう「毒親」です。毒親を持ったら、子供は避難行動をするほかないのです。子は、被害から退避するしかないでしょう。毒親に限って、親としての自己愛の偏位を指摘されると「わたしを責めないでください(怒)」と、逆ギレしてくるのです。自己愛性パーソナリティ障害の人は冷酷なところを改心し、愛と慈悲にめざめて、利他愛を持つように修養すれば開運します。

愛を学ぶために因果応報がある

愛があるからこそ、一見、無駄とも思える行動を誰かのためにできるのです。何度言ってもわからない相手に何度でも教えることができたり、あきれるほどの失敗の繰り返しをして見せる相手さえもあたかく見守れるのは愛があるからです。そして、私たちを守る守護霊様もすべて、深い慈愛でわたしたちを守り導いて下さっています。神仏の加護を授かりたいのであれば、私たちも神仏の御心を見習い、近づく必要があります。人間様に対する時も、効率主義や打算であったら、それは邪霊に感応する物事の進め方となります。何事も神仏の御心を第一として、慈愛をもって物事を推し進めてこそ、神仏の奇跡のごときご加護が授かるのです。

あわせて読みたい関連記事: